中国地方・小京都ツアー

5月17日(火) 山口県

7:00観光マップがあるだろうと思って、最寄りの宇部新川駅に寄った。そういうものを探す時は大抵、駅か駅前の観光案内所へ行く。

宇部新川駅

宇部新川駅は、山陽本線の新山口駅と宇部駅の間を本線から分岐して海岸沿いを走る宇部線の駅。

中には小さな売店があったものの観光マップはどこにもなかった。

名所旧跡のような観光地が少ないのだろうか。宇部駅まで行けばきっと何かあるだろうが、ここに無いなら大した見どころも無いだろうと合点して、次の目的地に向かうことにした。

いくらも行かないうちに朝の通勤ラッシュに巻き込まれてしまった。どちらに逃げても渋滞にはまる。道の付け方が少しおかしいんじゃないだろうか?

◆◆◆

1時間ほどで海沿いの道に出た。しばらく高い堤防の横を走るが、水門の脇に一瞬海が見えたので、車を停めて休むことにした。ここは、山陽小野田市津布田付近。

テトラポットに上って眺めると、海岸線が大きく湾曲して、はるか先に山や建物や島らしきものが見えた。自転車で通りかかったお姉さんに尋ねてみたら、関門橋や巌流島の方向だから、多分それじゃぁないでしょうか、と...

下関市

東行庵とうぎょうあん

9:00それまでの国道190号を前場の交差点で右折し、北に向かって10分ほどで目的地に到着。付近の道路は舗装されたばかりで、幅もゆったりしていて気持ちよい。直前のT字路を右に曲がると左手に小さな土産物屋と駐車場がある(T字路を反対に行くと大きな駐車場がある)。東行庵は道の反対側。

東行庵

高杉晋作の菩提を弔うために建てられた礼拝堂。東行は、生前晋作が名乗っていた号である。

幕末に長州藩士の子として生まれ、松下村塾で学んで見識を広める。やがて諸外国の脅威に直面する日本を見てそのあり方を憂い、尊王攘夷を強力に進めるが、大政奉還の直前に肺結核で亡くなる。

遺骨は彼の遺言で奇兵隊の本拠地に近いこの地に埋められ、永平寺から得度を受けた晋作の愛妾おうのが初代庵主を勤めた。

東行庵の横を通り、梅、桜、モミジなどが植えられた小高い所を進んで行くと、石の柱に囲まれた中に高杉晋作、福田公明の墓石がある。裏を回り、戻る道の所々に晋作ゆかりの人物、騎兵隊の墓などがある。

墓所 高杉晋作・山縣有朋像

長府

9:50次の目的地は乃木神社。長府に入り、まだ昼には早かったが、まともな朝食をとっていなかったのでコンビニで目にしたざる蕎麦を買う。

乃木神社が近づき、国道からそれて細い道に入る。何だかごちゃごちゃした昭和感漂う商店街に入る。街路灯に「乃木さん通り」の看板がついている。

コインパーキングに車を入れ、神社に行こうか、さっき買った蕎麦を食べようか迷ったが、長くは置いておけない、と本意ではないが車中で食べることにした。蕎麦を買ったのは失敗だった

忌宮いみのみや神社

10:30忌宮神社(旧国幣小社)に寄った。
忌宮神社は、西国平定(熊襲討伐)を戦った仲哀ちゅうあい天皇を祀るために神功じんぐう皇后が199年に「豊浦宮」建立したのが始まり。

その後、隣り合うように神功皇后を祀る「忌宮」、応神天皇を祀る「豊明宮」の三殿が建立されたが、中世の火災で豊浦宮、豊明宮の二つが焼け、忌宮に合祀され一殿となった。現在の社殿は明治10年6月に造営されたものを昭和56年に改修したもの。

また、195年に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して蚕(かいこ)の卵を仲哀天皇に奉献したとされ、豊浦宮が蚕種渡来の地といわれる。

忌宮神社

境内でやっと歩き始めたくらいの女の子が鳩を追いかけて遊んでいた。母親はというと、少し離れた所で静かにそれを眺めている。

荒熊稲荷神社

忌宮神社に付属する神社で、境内にある。
五穀豊穣、商売繁盛を願い、長府藩主毛利元義が参勤交代の帰りに京都伏見稲荷大社に寄って分霊を賜り、1848年にここに社殿を再建した。

乃木神社

10:40乃木神社は、乃木希典まれすけ大将の死後、その功績を称え、学問の神として祀られた神社。1920年(大正9年)1月30日に創建。

長府藩士の子として江戸で生まれ、9歳で長府に転居。1905年の日露戦争において難攻不落といわれた203高地の要塞を多大の犠牲をはらいながらも攻略し、日本を勝利に導いた。明治天皇大葬の日に殉死した。

乃木神社

ちょうど幼稚園児の遠足であったか、境内で宮司さんが幼稚園児を集めて乃木大将はよく勉強して偉くなったなどと面白そうに話していた。

こんな小さい頃から郷土の英雄や歴史の話をしてもらえるというのは羨ましい。

◆◆◆

11:00海沿いの道に出る。やがて前方に関門橋が見えてくる。あの橋を渡ると門司。雲ひとつ無い青い空と青い海、そこを横切る巨大な吊り橋。そこに向ってどんどん走っていくのは気分爽快だ。

関門橋
壇ノ浦古戦場跡

上に気を取られていて、もう少しで橋の下をくぐろうかという時に壇ノ浦古戦場跡に気付いてあわてて車を停める所を探した。

そこは道と海岸に挟まれた細長い公園のようになっていて、きれいに整えられた芝生の上に源平合戦であった船上の戦いの像や、幕末に長州藩が設置したという大砲が数門、砲身を海に向けて並べられていた。

源平合戦の一こま(源義経と平知盛)
長州藩が設置した大砲
源平合戦(治承じしょう寿永じゅえいの乱)

源平合戦は平安時代の末期、1180年5月~1185年3月の6年間にわたって起こった治承・寿永の乱をいう。

発端は、この頃強大な勢力をもつようになった平氏がそれを背景に天皇の後継まで左右するようになった。
天皇への道を断たれ、業を煮やした後白河法皇の皇子 以仁王もちひとおうは、ついに平氏討伐を決意し、全国各地の源氏や支配下の武士に打倒平氏の命を発した。

企ては早々に露見して以仁王は戦死するが、命を受けた東国の源頼朝は、かねてから平氏に不満をもつこの地の豪族や平氏系武士らを支配下に取り込み、鎌倉を拠点にして反撃に出た。戦いは、小田原の石橋山の戦い(1180年9月)を皮切りに、各所で小競り合いを繰り返しながら徐々に京へ近づいていった。

そして、平家は砺波山の倶利伽羅くりから峠の戦い(1183年6月)で源義仲軍の奇襲を受け、10万の兵を失う致命的な大敗を喫した。
7月になると源義仲・行家軍が上洛するとの噂が立ち、ここに至って平氏一門は京都明け渡しを決意し、安徳天皇を奉じ、三種の神器を携えて西国へ逃れる。

義仲軍は上洛を果たしたが、飢饉が重なって義仲の兵が略奪、狼藉を繰り返すなどして市中は一層不安定になった。たまりかねた後白河法皇は、義仲に平氏追討を命じて水島へ遣り、代りに頼朝を上洛させようとした。それを聞きつけた義仲は京へ引き返すが、頼朝の命により上洛していた範頼軍・義経軍と一戦を交え、戦死した(1184年3月 粟津の戦い)。

戦いは、いよいよ終盤に入る。
天皇不在となった都では、新たに後鳥羽天皇を即位させたが、正当な天皇であるためには奪われた三種の神器を取り戻す必要があると平氏追討を決定し、総指揮者に源義経を任命する。

その頃、西国に逃れていた平氏は屋島に拠点を置いて勢力を立て直し、福原(兵庫区平野)まで接近して陣を敷き、京奪還の機を窺っていた。

平氏討伐の命を受けた範頼軍・義経軍は、二手に分かれて福原を目指し、1184年2月4日に前哨戦が始まる。7日には義経が精鋭70騎を率いて一ノ谷の背後から奇襲を掛け、平家軍に大打撃を与えた(一ノ谷の戦い)。

平家軍は屋島に逃げ戻るが、直後に各地で小競り合いが勃発したため源氏軍はすぐにはその後を追うことができなかった。年が明け、義経は精鋭精鋭170騎を引き連れて徳島へ渡り、夜、屋島の背後から奇襲をかけ攻め落とした(屋島の戦い 1185年3月22日)。

一旦、志度へ退いた平家は、そこも追われて、結局、かつて拠点にした彦島まで退却した。その頃には、既に周辺を源氏方に制圧されていた。平家は背水の陣を敷いて義経軍を待つことになる。

義経は840艘の水軍を編成。対する平家は知盛を大将に総勢500艘で迎える。戦いは、はじめ上流にあった平家が有利に進めるが、潮の流れが反転すると形勢は逆転し、義経軍の猛攻にあってやがて平家側は壊滅状態になり、敗戦が決定的となる。終わりを悟った平家の戦士や女官は壇ノ浦に入水して源平合戦が終わる(壇ノ浦の戦い 1185年4月25日)。

この戦いの終、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政権が始まり、宮廷の力は急速に弱まる。

紙芝居「壇ノ浦の戦い」

休みでもないのに観光客が大勢いた。

その観光客を相手に紙芝居をしている男がいた。ボランティアのようだったが、僕と同年代の人で、真っ黒に日焼けして壇ノ浦の戦いの顛末ををいい調子で話していた。

ちょっと離れて座っていたけれど、話が終わるとわざわざ僕のところまで来て、また話し始めた。

 「こちらの人は今も亡くなられた平家の方々に愛着を持っています。船上の戦いでは、当時は雇われた水夫を弓で射ることを作法に反するとしてやってこなかったが、義経はこれを破って戦いを有利に進めたんです。
 もはやこれまでと悟った平氏一門は海に身を投じて戦いは終わったが、これが海に沈んだ平氏の無念が化身したといわれる蟹です」。

と、そう言って箱に入った平家蟹の標本を出して見せてくれた。言われて見ると、甲羅の模様がまさに鬼の形相をしていてギョッとした。甲羅の大きさはは5㎝ほどのもので小さい。上に小石などをくっ付けて身を隠しているそうで、そのため、端の対の足は普通とは逆に上の方を向いている。食べるものではない。

赤間神宮

道の反対側は赤間神宮。

竜宮門

平清盛の孫でもあった安徳天皇は、平家一門と行動を共にしていて、ここで母の建礼門院や二位尼らとともに海に沈んだ。わずか八歳であったという。建礼門院は源氏の兵に引き上げられ、後に大原の三千院で平家の菩提を弔うことになる。

平家一門と安徳天皇が葬られているのが、後の赤間神宮となる赤間関紅石山麓阿弥陀寺であった。阿弥陀時は1191年に天皇の命により勅願寺となり、明治に至って官幣中社、名前を赤間神宮に改め、さらに、昭和15年に天皇陛下の勅使により官幣大社に列せられた。神殿は東亜大戦の空襲で焼失したが、20年かけ昭和40年に再建された。その姿は関門海峡を望む龍宮城と言われる。


平家一門の墓

壇ノ浦の合戦で滅びた平家一門の武将の墓。この左手に安徳天皇の御陵がある。

そして、この弥陀寺は耳なし芳一の舞台にもなった。
 ある時、平家の亡霊たちが目の見えないが大層腕の立つ琵琶法師がいると評判を聞きつけ、その芳一を連れ出し、毎晩お墓の前で琵琶を奏でさせた。これを知った和尚が、亡霊から見えないようにと身体中に般若心経を書き付けた。ただ、つい耳に書くことを忘れた。いつものように芳一を迎えに来た亡霊たちは、芳一を見つけることができなかったが、代りに宙に浮いている耳を見つけ、その耳をもぎ取って持ち去った。

境内に「耳なし芳一」のお堂がある。

下関

12:00
関門橋の下を抜けるともう下関の市街地に入っている。道の両側に家が建ち並び、高いビルも増えてくる。

唐戸市場からといちば
左側に唐戸市場の大きな建物が見えてくる。中は、壁側が二階建てで中央は吹き抜け。上からのぞくと、ざっと100ほどの店舗が入っているのが見える。二階部分は主に食堂や土産物店で、市場が12時で殆ど店じまいしているのに観光客でにぎわっていた。その一つの「すし遊館」に入った。回転寿司だが、新鮮でおいしかった。

下関駅付近、駅前広場

食後、近くの商店街と下関駅付近を散歩した。海は駅から目と鼻の先だ。

車に戻り、今度は車で市街地を回ってみた。ビルの合間に時代を感じさせる建物がたくさん見られる。起伏の多い街で、またカーブの多い道ばかりで見通しがきかない。高い所で一休みし、海の方を眺めると、真っすぐ1kmほど伸びる新しい橋があった。長州出島につながる工事中の橋だ。一通り走り回った後、海沿いを走るルートで次の萩に向かった。

下関港

30分ぐらい走った辺りから家が途切れはじめ、海や山の自然な光景を見ながら走れるようになった。家の冷蔵庫が故障したとメールが入っていたのに気づき、コンビニに車を入れて達則に型式と連絡方法を調べるよう頼む。



15:40ちょうど「道の駅 北浦街道 豊北ほうほく」の駐車場に車を入れた頃に達則から連絡が入った。修理窓口サービスセンターに状況を説明し、修理依頼した。

道の駅は海に張り出した丘のような所にあった。手前にサッカーグラウンドぐらいの大きな駐車場があり、奥の丘のふちに建物が一直線に並んでいる。横に小さな山があって、上がってみると6世紀にこの辺りでいくつか造られた「和久古墳」の1つがあった。下には漁港があり、その先は響灘が広がっている。天気が良かったので海の色が少しエメラルドブルーに輝いて見えた。ここはほぼ本州の最西端の地になる。

和久古墳、和久漁港(響灘)

17:305時半頃、に入る。
宿は車のNAVIで調べて「ビジネスホテル長谷川」にした。

本日の宿泊
ビジネスホテル長谷川 (萩市唐樋町17)
チェックイン料金走行距離
19:005,300円970km

夕食は是非、地元の料理をと思い出かけた。日差しはなかったがまだ明るい。後ろから地元の人らしい人が近づいてきたので尋ねてみると、ちょうど今、食事に行くところだからご一緒しましょう、ということになった。

広い通りを曲がり、5分ほど歩いて路地に面したお店に入る。名前は「河忠」。クラブのような室内の一角をアーチ型の通路のあいた壁で仕切った、軽食を出すカウンターのような造り。しゃれたご夫婦(と思った)が2人でやっていた。奥さんは僕より 1つ上だそうだ。若い頃、一宮で働いていたと言う。

来る途中に何の料理がいくらだとか聞いていたが、実際に出されてみて改めて驚いた。鮑・鮪・ハマチ・イカや白身魚など20切れほど盛られた刺身が500円。また、これが鮮でおいしい。それから刺身定食が300円。中ビールを2杯頂いて全部で1,800円。その上、帰りに炊き込みご飯をパックにして持たせてくれた。ほんとうにお値打ちで大満足だった。

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