
| 熊14 | 大観望 | ||
|---|---|---|---|
| 熊本県阿蘇市山田 | 7:20着 | 1,153km | |


| 熊15 | 米塚 | ||
|---|---|---|---|
| 熊本県阿蘇市永草 | 8:40着 | 1,184km | |
お椀を伏せたような形をした山だが、これも立派な火山。なだらかな所にポツンとあるのがおもしろい風景になっている。しぶき状に吹きあがったマグマがきれいに落ちて積み上がったもので、高さ80m、山頂は火口で大きくくぼんでいる。

一時、観光名所になって多くの人が登ったそうで、あちこち立ち入った結果草花が踏み荒らされ、浸食が進んですっかり荒れてしまった。現在は、環境省のもとで元の姿に戻す活動が行なわれており、立ち入りが禁じられている。
"米塚"という名は、伝説で阿蘇神社の祭神である 健磐龍命 が収穫した米を積み上げた造った山からきている。
| 熊15 | 草千里ヶ浜 | ||
|---|---|---|---|
| 熊本県阿蘇市長草 | 9:13着 | 1,188km | |
米塚から数キロ走ったところに見晴らしのよい展望台がある。煙が上っているのが中岳火口で、その奥の盛りあがっている左端が最も高い高岳(1592m)。その他に中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳があり、それらを阿蘇五岳という。

右に見える池の付近は草千里、左の駐車場の奥には阿蘇火山博物館がある。
| 熊16 | 白川水源 | ||
|---|---|---|---|
| 熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字白川 | 9:30着 | 1,207km | |
阿蘇の草原の風景は素晴らしいが、南へ下ってカルデラのなかの田畑が広がる田園風景が見えてくると何だかホッとする。この田園風景は、火口の北と南の両側に見える。
やがて家々が建ち並んできて、久しぶりの生活感を感じる。
白川水源駐車場に車を停め、その先を歩いて行くと100m程で清流が流れる小川が見えてくる。そこから上流に沿って歩道が整備され、木立が立ち並んで遊歩道のようになっている。ぶらぶら300mほどあるいて行くと一級河川白川の水源に辿り着く。環境省の名水百選の一つだ。


阿蘇山に浸み込んだ水はここから毎秒60トンの勢いで湧き出し、途中、黒川などの水を集めて熊本市内を抜け、有明海に注ぎ込む。
| 大17 | 岡城跡 | ||
|---|---|---|---|
| 大分県竹田市大字竹田 | 11:35着 | 1,265km | |
阿蘇カルデラを出て北西に走り、再び大分県に入る。

1時間ほどで山あいのなかの起伏のある道の信号機の近くに岡城の案内板を見つけ、左折。
駐車場に車を停めて出ると、辺り一面に届きそうな大きな音で曲が流れていた。
♪ 春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして...
滝廉太郎の代表曲の一つ「荒城の月」だ。中学生の頃よくこの城跡を散策し、後にその思いを曲にしたものと言われる。
城内はいたるところに木や草が生え、ずいぶん荒れている。だが、実は目立たないように整備されていて、邪魔な草木は綺麗に取り除かれている。


岡城(別名 臥牛城、豊後竹田城)は、1185年に大野郡の武将 緒方惟栄 が源義経を迎えるために築城した(疑問視されるが)と伝えられる。1334年に後醍醐天皇の命により拡充が行なわれ、岡城と命名された。志賀氏、中川氏と城主が移るなか増改築が繰り返され、難攻不落の誉れ高い城となった。江戸時代が終わるとその役目が終わり、1872年に廃城令によりすべて取り壊された。

滝廉太郎(1879~1903)
東京で生まれるが、内務省の役人であった父について各地を転校する。尋常小学校校(現中学校)をここで卒業し、その後東京に戻って音楽の道に進む。荒城の月は1901年に旧制中学校唱歌の応募作品として作曲したもので、日本で最初に作曲された西洋音楽として注目された。その後ヨーロッパに留学するが結核を患い、帰国して父の故郷大分で療養するが1年を待たずして死去。像の背後に見えるのは九重連山。
| 大18 | 原尻の滝 | ||
|---|---|---|---|
| 大分県豊後大野市緒方町原尻 | 12:50着 | 1,272km | |
近くの「道の駅 原尻の滝」に駐車して歩いていくと、100メートルほどで滝が見えてくる。写真のように山谷もなく平らな所に20メートルの段差があり、水が流れ落ちている。上の方は一面に田畑が広がっている。写真だとすこしナイアガラ瀑布に似ているようにも見える。


滝の壁面は、熱い溶岩が冷える時にできる規則的なひび割れ(柱状節理)に沿って剥がれ落ちた後の筋が見える。土台になった溶岩は、およそ9万年前に阿蘇山が噴火して流れ込んだ火砕流が冷え固まったものといわれる。
道の駅の「レストラン白滝」でちょっと遅めの昼食にざる蕎麦をいただく。
| 大19 | 臼杵石仏 | ||
|---|---|---|---|
| 大分県臼杵市深田 | 14:45着 | 1,314km | |
山の麓に沿って走っていくと臼杵石仏の駐車場があった。車を下りて先へ行くと小川を挟んだ向こう側に料金所がある。拝観料を払い、また小川に沿って行くと入口の看板が見えてくる。ただ、そこには看板があるだけで、料金所に気付かず来た人はそのまま中に入ってしまうだろう。


この石仏は阿蘇山から流れ出た火砕流が固まってできた凝灰岩に彫られたもの。平安時代後期から鎌倉時代に造られたと推定されるが、その資料、文献は無く、誰が何のために造ったか分っていない。
この自然の岩盤に直接彫り込んだ石仏を磨崖仏と言うが、臼杵石仏の岩は脆く、また造営後1000年にわたり放置状態にあったため、大雨で川のように流れる水によって多くの石仏の下半身が浸食されてしまった。近年になり、改めてその質や量、規模などの価値が見直され、1980年から1994年までの14年にわたって保存修復工事が行われ、1995年に石仏としてはじめて国宝の指定を受けた。


石仏はこの一帯の4箇所に合わせて60体余り彫られている。その場所によって(通常ルートで回る順で)ホキ石仏第二群、ホキ石仏第一群、山王山石仏、古園石仏の名前が付けられている。
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次の臼杵城跡・稲葉家下屋敷に向って臼杵川沿いに北東の方向へ走る。目的の地は臼杵川河口の付近で、綺麗に整備された町の中心辺りにある。
| 大20 | 臼杵稲葉家・臼杵城跡 | ||
|---|---|---|---|
| 大分県臼杵市大字臼杵 | 15:48着 | 1,320km | |
でっきり江戸時代の武士の屋敷と思って見てきたが、実は明治時代に建てられた屋敷で、廃藩置県ののち東京に転居した旧臼杵藩主稲葉久通が里帰りのおり居住するために明治35年に建てられたものだった。




臼杵城跡は稲葉家下屋敷と目と鼻の先のところ。何も考えずNAVIに案内してもらったらすぐに到着した。
築城は大友宗麟によって1562年に行なわれた。当時、ここは臼杵川河口近くの潮が引いた時に地続きになる丹生島という島であって、自然を利用した天然の要塞となった。別名は丹生島城、または島の形から 亀城 と呼ばれる。
この前に寄ってきた稲葉氏は1600年に美濃からこの地に移り、廃藩置県まで15代にわたって臼杵藩藩主を務めた。




臼杵城は1873年(明治6年)に廃城となり、2つの櫓と書院の庭園の一部などを残して取り壊された。現在は本丸、二の丸跡が公園地に指定され、臼杵公園となっている。
17:50道の駅 北浦で一休み。
臼杵をたって1時間、この旅ではじめて宮崎県に入った。そろそろ休憩を、と思っていたところで道の駅が見えたので入る。

ぶらぶらと海の側に出ると「月の塩」の資料館があった。
かつて、揚げ浜式の塩づくり(海水を砂浜で濃くし、煮詰めて塩をとる)が行なわれ、「浜木綿塩」という名前で販売されていたが、現在も「月の塩」という名前に改めて製造・販売している。
さて、時間はもうゆっくりできない。ということで、予定外ではあるが北浦I.Cから東九州自動車道を利用することにした。
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予約したホテルは延岡駅の近くにあった。そのすこし手前、旭化成の広大な工場の横を走っていた時がちょうど夕暮れで、建物やら塀やらまわり一面が赤く染まってとても印象的だった。
| ビジネスホテル延岡 (宮崎県延岡市幸町) | ||
|---|---|---|
| チェックイン | 料金 | 走行距離 |
| 18:50 | 2,900円 | 1,400km |
夕食は、駅前だから何かあるだろうと当てもなく出かけ、居酒屋 喜多八さんに厄介になった。